ワクチン嫌いをどうする? 麻疹流行に悩む国の取り組み
「ヘルスジャーナリズム2019」ワクチンをめぐる議論から
大脇幸志郎(メディカルジャーナリズム勉強会・医師)
麻疹(はしか)のニュースを最近見ただろうか。日本は2015年に麻疹を排除した状態と認められている。かつてはごく当たり前だった麻疹が、いまでは逆に発生そのものがニュースになるほど少なくなった。
麻疹のワクチンには高い予防効果がある。日本では麻疹の予防接種の実施率が高い。2017年には対象人口の96%にあたる96万4303人が1回めの麻疹のワクチンを(その多くは風疹と混合したMRワクチンとして)打っている。麻疹が激減したことはワクチンのたまものだ。
ワクチンが普及したことで先進国では麻疹は少なくなった。ところが最近一部の国で、新しい問題が生まれている。
アメリカは2000年に麻疹が排除されたことを宣言している。日本より15年も早い。しかし2014年には麻疹が急に増えた。2018年末からも急に増え、2019年はまだ半分しか終わっていないのに何十年かぶりの人数になっている。そのうち半分以上がニューヨーク市にいる人だ(下図)。
アメリカでいったい何が起こっているのだろう。
19000以上の「いいね」がついたトランプ大統領のツイート
実は2018年以来の流行で麻疹になった人の大半はワクチンを打っていなかった人たちだ。麻疹排除をずいぶん前に達成したはずのアメリカで、ワクチンを打たない人たちがこんなにいたのだ。どういうことだろうか。
ひとつのヒントがある。
トランプ大統領もワクチン嫌いだ。トランプ大統領がツイッターに「健康な小さい子供が医者に行き、ワクチンをごまんと打たれ、気分が悪くなって変わってしまう――自閉症だ。そんなことがよくある」と書いたとき、1万9000を超える「いいね」がついた。
「ワクチンを打つと自閉症になるのではないか」という風説があって、ワクチン嫌いな人を増やしているのではないか。トランプ大統領のツイートとそれに対する反応からは、そういうイメージが浮かぶ。
この5月にアメリカ・ボルチモアで開催された「ヘルスジャーナリズム2019」でも麻疹のワクチンが話題になった。このイベントは、ジャーナリストや医療従事者が社会の役に立つために相互理解を高め専門能力を磨くことを目的としたもので、参加者は18か国から計800人以上も集まった。
麻疹のワクチンの話題は「子供の予防接種改善の努力」というセッションで大きく取り上げられた。そのあらましを見ていこう。
人々がワクチンを打たない理由
登壇者の一人は、著書『反ワクチン運動の真実』が日本語にも翻訳されている、ポール・オフィット。
オフィットの発表は反ワクチン運動の歴史に重点を置いていた。
反ワクチン運動の歴史は長い。18世紀末にジェンナーの牛痘ワクチンが登場すると「打つと牛になる」というデマが広まった。以後も三種混合ワクチン(ジフテリア、百日咳、破傷風)やポリオワクチンに反対する映画が作られ、ワクチンに関連する訴訟があり、アンドルー・ウェイクフィールドの悪名高い捏造論文がワクチンと自閉症を結びつけた。
オフィットに続いて発表したのが、ワクチン普及の研究で論文を書いてもいる、ロバート・ジェイコブソン。
ジェイコブソンのスライドには、ワクチンを打たない人の、打たない理由が列挙された。
・打ってくれる施設がないから
・高いから
・定期接種に予定を合わせられないから
・ワクチンを打ってはいけない場合について誤解があるから
・ワクチンを打つ回数や年齢が複雑すぎるから
・反ワクチン運動があるから
・周りにワクチンを打ちたくない人が多いから
理由がわかれば対策ができる。副作用被害の補償、スケジュールの調整、利用者負担額の軽減。そんな中でも、施策に効果があったかなかったかはひとつひとつ検証されている。たとえば「教育のみ」のプログラムには効果がない。教育のみというのは、学校の授業で教えるとか、病院に来た人に教えるといったことだ。対して、臨床医がワクチンを打つように勧めることには効果があったという。
ニューヨーク市の「罰金制度」が問いかけるもの
オフィットやジェイコブソンの議論は良心的だ。だが、本当にそれでいいのだろうか。
実はアメリカのワクチン事情はもう少し闇が深い。
2019年4月9日、ニューヨーク市は麻疹の流行に対して、予防接種を義務とし、違反すれば1000ドルの罰金を科するという命令を出した。
めちゃくちゃな話だ。罰金を払って済ませる人は縛れないし、対象地域にだけウイルスがいるわけではないし、強引すぎる。かえって反発を招き、ワクチン嫌いな人をさらに強硬にするだけではないか。そういう意見が医師から出され、世界一よく引用される臨床医学専門誌の『The New England Journal of Medicine』に載っている。
また、ある病院グループでは、電子カルテを検索して予防接種が義務となる人を見つけ、医師や看護師にアラートを出すシステムを開発したという。それがいかにもいいことのように報道されている。電子カルテを診療以外の目的に使うことが許されていいのだろうか。
違う角度で言えば、ジェイコブソンのリストには、もっと注目されている宗教の問題が挙がっていない。
アメリカの公的機関の資料は、最近の麻疹の流行の原因を解説している。それによると、2014年にはオハイオ州のアーミッシュという宗教集団の中で流行があった。2018年にはユダヤ教正統派の集団の中で流行があった。資料は慎重に判断を避けているが、世論には宗教も流行の一因ではないかという見方が強いのだ。
対して、アメリカ50州の多くは宗教または個人の信念により学校での予防接種を拒否することを法制度上認めているのだが、ニューヨーク州、カリフォルニア州、メイン州、ミシシッピ州、ウェストバージニア州では認めていない。
ワクチンをめぐる両極端な状況
あるアンケートの結果によれば、アメリカの回答者の77%が、子供の予防接種は親が反対してもするべきだと答えたという。
しかし、この点の議論は慎重でなければならない。公共の利益のためと言えば多くの人が賛成するに決まっているが、だからといって少数派の思想・良心の自由を無視していいわけではない。少数者の権利は、いったん後回しにされれば坂道を転げ落ちるようにないがしろにされるおそれがある。端的に言えば宗教差別につながるかもしれない。「この宗教ではこのような教理によりワクチンを拒否するよう教えているから間違いを正そう」と考えるのは宗教弾圧そのものだ。
なお、ワクチン強制の命令を出したニューヨーク市長のビル・デブラシオは現在、2020年の大統領選に出馬を表明している。「ワクチン」と「自閉症」を結びつけるツイートをしてしまうトランプのポピュリズムか、「ワクチン強制」を実施するデブラシオのパターナリズムか−−。この両極端に直面したとき、細く困難な第3の道を示すことこそがジャーナリストの使命だったのではないか。
その困難な道とは、一見逆説的だが、ワクチンを拒否する人にこそ優先的に医療資源を投入するというものかもしれない。薬物乱用や性感染症についてしばしば言われるハーム・リダクションの思想がワクチン忌避にも機能しないだろうか。
ハーム・リダクションとは、根本的な原因の解消が難しいと思われた場合、結果として生まれる害を減らすことに重点を起き、原因の解消にはこだわらないという考え方だ。たとえば1990年代のアメリカで薬物の回し打ちによりHIVが広まるという問題があったが、使った後の針を新しい針と交換できる「針交換プログラム」によりHIVの感染が抑制された事例は史上名高い。ワクチン忌避に当てはめるなら、宗教的理由で接種拒否する人ではなく、その周りにいる人々こそが、積極的キャンペーンの対象に適しているのかもしれない。
ハーム・リダクションは無数にあるべき提案の一例にすぎない。強制が最適解とは言えない状況の中で、違った解決はまだ世界の誰も知らない。だからこそ、視野を広げて考えなければならないのだ。医学と社会の関係についての考察と実践、そして検証が、アメリカの麻疹の問題にとどまらず、日本を含む多くの国での予防接種のあり方を問う上で必要とされている。